2023年06月08日

琉球・沖縄の日本史問題演習<第1回>


どうも!個別指導塾フォワードの松下です!
本日も日本史の問題を出していきたいと思います!
これから3回にわたって扱うのは琉球・沖縄の歴史です。去年が沖縄返還50周年の年でしたが、沖縄の歴史は大問で出されることもある内容ですのでこの機会に確認しておきましょう。


@以下の文に適切な語を入れよ
日本史で沖縄がピックアップされるのは旧石器時代にさかのぼる。沖縄県で発見された(1)は現存する中でもほぼ完全な形で発見された数少ない日本の化石人骨である。これは頭蓋骨の特徴から中国南部で発見された柳江人という説もある。また、同じ沖縄県の化石人骨で最古の化石人骨と考えられているのが(2)である。これは研究により8歳程度の女児の人骨だと推定されている。


A以下の文で正しいものを選べ
1、沖縄では本土の弥生時代にあたる時期には続縄文文化という文化が形成された。
2、沖縄では本土の弥生時代にあたる時期には貝塚文化という文化が形成された。
3、沖縄では本土の弥生時代にあたる時期には狩猟や水稲耕作を中心とした文化が形成された
4、本土が古墳時代を過ぎたころまで沖縄と本土には交流はなかった


B以下の文で正しいものを選べ
1,1609年に島津家久は尚寧王を服属させ、宮古島以北を薩摩藩領とした。
2,江戸時代に将軍の代替わりごとに謝恩使、琉球王即位ごとに慶賀使が江戸に来た。
3,江戸時代を通じて琉球国は日中両属状態であったが、中国との対立を避けるために朝貢は中国に対してのみ行われた
4,1853年にペリーが来航し、1854年には琉米修好条約が締結された







いかがでしょうか、知らなかった知識などもここで押さえておきましょう!
それでは解答です!



@以下の文に適切な語を入れよ
日本史で沖縄がピックアップされるのは旧石器時代にさかのぼる。沖縄県で発見された(1港川人)は現存する中でもほぼ完全な形で発見された数少ない日本の化石人骨である。これは頭蓋骨の特徴から中国南部で発見された柳江人という説もある。また、同じ沖縄県の化石人骨で最古の化石人骨と考えられているのが(2山下人骨)である。これは研究により8歳程度の女児の人骨だと推定されている。




A以下の文で正しいものを選べ
1、 沖縄では本土の弥生時代にあたる時期には続縄文文化という文化が形成された。
2、 沖縄では本土の弥生時代にあたる時期には貝塚文化という文化が形成された。
3、 沖縄では本土の弥生時代にあたる時期には狩猟や水稲耕作を中心とした文化が形成された
4、 本土が古墳時代を過ぎたころまで沖縄と本土には交流はなかった

→正解は2、狩猟採集を中心としたが、水稲耕作が行われていなかった。1は北海道の文化。4は大和から弥生土器、沖縄からは貝殻が交易されていた。




B以下の文で正しいものを選べ
1,1609年に島津家久は尚寧王を服属させ、宮古島以北を薩摩藩領とした。
2,江戸時代に将軍の代替わりごとに謝恩使、琉球王即位ごとに慶賀使が江戸に来た。
3,江戸時代を通じて琉球国は日中両属状態であったが、中国との対立を避けるために朝貢は中国に対してのみ行われた
4,1853年にペリーが来航し、1854年には琉米修好条約が締結された

→正解は4。なおこの時もしも抵抗した場合ペリーは武力で琉球を征服することを大統領フィルモアから許可されていた。また、1855年には琉仏修好条約、1859年には琉蘭修好条約がそれぞれ結ばれている。
1,島津家久が服属させた際には与輪島以北を薩摩藩領とした。2,謝恩使と慶賀使が逆である。3,日中両方へ朝貢や貢納を行っていた。



最近は細かい一問一答形式の暗記以上に幅広くいろいろなことを知っていることが有効な場面もあります。なので、出なさそうな細かいことも頭に置いておくといいのですが、とはいえ、新しい情報すべてを暗記することは難しいと思います。新しい蘊蓄が増えて面白いなくらいの心構えで、少なくとも聞いたことがあるレベルを目指していくことが大事ですね。

それではまた!

posted by 松下勇太 at 17:00| Comment(0) | 日本史

2023年06月04日

奈良時代<藤原不比等〜藤原百川まで>


しばらく間が空いてしまいました。個別指導塾フォワードの松下です。
本日は久しぶりに日本史の問題を出していこうと思います。
今日扱うのは奈良時代ですね。奈良時代は藤原氏と藤原氏以外の政権が交互に権力の座を占めていましたが、その流れは受験でも頻出な反面、日本史受験生にとっては覚えにくい部分でもあります。今回の問題で記憶の確認をしてみてくださいね。

それでは問題です!

以下の(   )内に適切な言葉を入れて文を完成させなさい。

618年に中国大陸では隋に代わって唐が東アジアの広大な領域を支配下におさめ、律令を軸とする充実した国家体制を気づいて強力な勢力を誇り各地域に影響をおよぼしていた。
その影響は日本にも当然及んでおり、630年最初の遣唐使である( A )の派遣に始まり、( B )年の菅原道真の建議によって中止に至るまで十数回の唐への使節派遣が行われた。
こうした影響もあり、日本でも唐に倣って新しい政治体制を進める動きがより活発になっていった。710年、( C )天皇は( D )から平城京に遷都した。平城京は碁盤の目状に整然と区画された( E )をもつ都市であり、中央の南北を朱雀大路によって左京と右京に分けられていた。政治に目を向けるとそのころは皇族や有力豪族が勢力のバランスを保ちながら藤原不比等を中心に律令制度の確立が図られていた。しかし、藤原氏の勢力が大きくなるにつれて大伴氏や佐伯氏など旧来の有力豪族と藤原氏の間には軋轢が生じるようになり政争も徐々に本格化していくようになった。皇位継承を藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人にして生まれた子供である( F )天皇の即位を図り、さらに別の娘の( G )を( F )天皇の夫人として天皇家と藤原氏の密接な結びつきを築いた。不比等の死後、政界の首班となったのは高市皇子の子の( H )であったが、藤原不比等の子供の武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4兄弟は( F )天皇の次の皇位継承に不安を感じ、策謀によって( H )を自殺に追い込んだ。
しかし、藤原四子は天然痘で相次いで死去し藤原勢力が一時後退すると、皇族出身の( I )が政権を握ることとなった。彼は唐から帰還した法相宗の僧である( J )や留学生であった( K )と共に政治で活躍することとなった。しかし、740年、宇合の子で大宰府に赴任していた( L )が( J )・( K )の排除を求めて九州で兵を動員し乱を起こした。乱は大群によって鎮圧されたが政府の動揺はおさまらず、数年の間天皇は恭仁京・難波京・紫香楽宮など都を転々と移すことになった。
こうした政治不安の中で仏教をあつく信仰していた時の帝は( M )の思想によって平和と安定を図ろうとした。741年には( N )をだし、国ごとに国分寺・国分尼寺をもうけさせることにした。ついで、紫香楽宮で( O )が出され、国家事業として造仏が行われることになった。天皇はその後、娘の( P )天皇に譲位し、その御代である( Q )年に盛大な大仏開眼供養が行われることとなった。この儀式には時の天皇や上皇・上皇后や時の帝も参加したほか、文武百官やインド・中国から渡来した僧をはじめ1万人が参列する儀式となった。この天皇の時代では武智麻呂の子供の( R )が政界で勢力を伸ばしていた。高齢であった( I )は引退に追い込まれ、その子供であった( S )は大伴氏・佐伯氏らの力を借りて時の政権を倒すべく乱を起こそうとしたが、逆に先制されてしまい、厳しい取り調べの中で殺されることになってしまった。その後( R )は舎人親王の子であった( T )天皇を擁立し、太政大臣にあたる( U )にまで上り詰めたが、後ろ盾であった皇太后がなくなると貴族社会の中で孤立を深めていった。同じころ、太上天皇が自身の病気の看病を行った( V )を寵愛するようになり、( T )天皇と対立するようになると( R )は危機感を募らせ764年に挙兵をした。しかし、( R )は太上天皇の迅速な対応によって敗戦を期し、乱には直接かかわっていなかった天皇も皇位を廃されて淡路に流されることとなり、太上天皇が再び即位して( W )天皇となった。
その後、( V )は宇佐八幡神が自身を皇位につければ天下は太平になると告げたと言い、即位を行おうとしたが、神意を聞く使節であった( X )が( V )の信託と異なる報告をしたことで目論見は失敗となり、770年に( W )天皇が死去すると後ろ盾を失った( V )は左遷されることとなった。その後、藤原式家の出身である( Y )が中心となり、それまで続いた天武天皇系の皇統にかわって、天智天皇の子供の施基皇子の子の( Z )天皇を即位させ仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の立て直しが図られることとなった。





いかがでしょうか?奈良時代は先ほども書いた通り、藤原氏とそれ以外の勢力のサンドイッチ構造になっていて「藤原不比等」→「長屋王」→「藤原四子」→「橘諸兄」→「藤原仲麻呂」→「道鏡」→「藤原百川」と推移していきます。各勢力がどのような政策を行ったのか、特に公地公民制が崩壊する中でどのように対策していったのかも併せて覚えていきましょう。また、この時代は天皇も必須なので各政権と天皇は一緒に覚えておきましょう。それでは答えです!




以下の(   )内に入る言葉を答えよ

618年に中国大陸では隋に代わって唐が東アジアの広大な領域を支配下におさめ、律令を軸とする充実した国家体制を気づいて強力な勢力を誇り各地域に影響をおよぼしていた。
その影響は日本にも当然及んでおり、630年最初の遣唐使である(犬上御田鍬)の派遣に始まり、(894)年の菅原道真の建議によって中止に至るまで十数回の唐への使節派遣が行われた。
こうした影響もあり、日本でも唐に倣って新しい政治体制を進める動きがより活発になっていった。710年、(元明天皇)(藤原京)から平城京に遷都した。平城京は碁盤の目状に整然と区画された(条坊制)をもつ都市であり、中央の南北を朱雀大路によって左京と右京に分けられていた。政治に目を向けるとそのころは皇族や有力豪族が勢力のバランスを保ちながら藤原不比等を中心に律令制度の確立が図られていた。しかし、藤原氏の勢力が大きくなるにつれて大伴氏や佐伯氏など旧来の有力豪族と藤原氏の間には軋轢が生じるようになり政争も徐々に本格化していくようになった。皇位継承を藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人にして生まれた子供である(聖武天皇)の即位を図り、さらに別の娘の(光明子)(聖武天皇)の夫人として天皇家と藤原氏の密接な結びつきを築いた。不比等の死後、政界の首班となったのは高市皇子の子の(長屋王)であったが、藤原不比等の子供の武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4兄弟は(聖武天皇)の次の皇位継承に不安を感じ、策謀によって(長屋王)を自殺に追い込んだ。
しかし、藤原四子は天然痘で相次いで死去し藤原勢力が一時後退すると、皇族出身の(橘諸兄)が政権を握ることとなった。彼は唐から帰還した法相宗の僧である(玄ム)や留学生であった(吉備真備)と共に政治で活躍することとなった。しかし、740年、宇合の子で大宰府に赴任していた(藤原広嗣)(玄ム)(吉備真備)の排除を求めて九州で兵を動員し乱を起こした。乱は大群によって鎮圧されたが政府の動揺はおさまらず、数年の間天皇は恭仁京・難波京・紫香楽宮など都を転々と移すことになった。
こうした政治不安の中で仏教をあつく信仰していた時の帝は(鎮護国家)の思想によって平和と安定を図ろうとした。741年には(国分寺建立の詔)をだし、国ごとに国分寺・国分尼寺をもうけさせることにした。ついで、紫香楽宮で(大仏造立の詔)が出され、国家事業として造仏が行われることになった。天皇はその後、娘の(孝謙天皇)に譲位し、その御代である(752)年に盛大な大仏開眼供養が行われることとなった。この儀式には時の天皇や上皇・上皇后や時の帝も参加したほか、文武百官やインド・中国から渡来した僧をはじめ1万人が参列する儀式となった。この天皇の時代では武智麻呂の子供の(藤原仲麻呂)が政界で勢力を伸ばしていた。高齢であった(橘諸兄)は引退に追い込まれその子供であった(橘奈良麻呂)は大伴氏・佐伯氏らの力を借りて時の政権を倒すべく乱を起こそうとしたが、逆に先制されてしまい、厳しい取り調べの中で殺されることになってしまった。その後(藤原仲麻呂)は舎人親王の子であった(淳仁天皇)を擁立し、太政大臣にあたる(太師)にまで上り詰めたが、後ろ盾であった皇太后がなくなると貴族社会の中で孤立を深めていった。同じころ、太上天皇が自身の病気の看病を行った(道鏡)を寵愛するようになり、(淳仁天皇)と対立するようになると(藤原仲麻呂)は危機感を募らせ764年に挙兵をした。しかし、(藤原仲麻呂)は太上天皇の迅速な対応によって敗戦を期し、乱には直接かかわっていなかった天皇も皇位を廃されて淡路に流されることとなり、太上天皇が再び即位して(称徳天皇)となった。
そのご、(道鏡)は宇佐八幡神が自身を皇位につければ天下は太平になると告げたと言い、即位を行おうとしたが、神意を聞く使節であった(和気清麻呂)(道鏡)の信託と異なる報告をしたことで目論見は失敗となり、770年に(称徳天皇)が死去すると後ろ盾を失った(道鏡)は左遷されることとなった。その後、藤原式家の出身である(藤原百川)が中心となり、それまで続いた天武天皇系の皇統にかわって、天智天皇の子供の施基皇子の子の(光仁天皇)を即位させ仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の立て直しが図られることとなった。


それではまた!
posted by 松下勇太 at 17:04| Comment(0) | 日本史

2023年04月20日

Chatgptにセンター試験の問題を解いてもらった話


こんにちは、個別指導塾フォワードの松下です。
今日は最近話題のChatgptを活用した話をしていこうと思います。

非常に便利なChatgptなのですが、私の趣味の方面ではそのポンコツぶりがよくネタになっていたりします。
今回はChatgptがどのくらい問題の質問に答えられるのか私自身興味があるので試してみました。

今回試したのは「化学」「英語」「古典」「日本史」です。それではやっていきましょう。

◆イオンに関する記述として誤りを含むものを選べ(センター2009年 本試)

@イオン化エネルギーは原子から電子を一個取り去って陽イオンにするのに必要な最小のエネルギーである
Aイオン結晶に含まれる陽イオンの数と陰イオンの数は必ず等しい
B塩素原子は電子を受け取って1価の陰イオンになりやすい
Cナトリウムイオンは、ネオン原子と同じ電子配置を持つ
Dイオン結合は、陽イオンと陰イオンの静電気的な引力による結合である

この問題を聞いてみました。以下、Chatgptの解答です

「Cナトリウムイオンは、ネオン原子と同じ電子配置を持つ に誤りが含まれます。ナトリウムイオンは、ネオン原子よりも電子を1個少ない電子配置を持ちます。」

化学は割と正解するかと思ったのですが、いきなり間違っていますね。正解というか誤っているのはAです。Chatgptの言っていることについてはナトリウム原子Naは電子を一個失って、ナトリウムイオンNa+になり、原子番号がNaより1つ小さいネオン原子Neと同じ電子配置となるのであっていますね。


次は英語です。


◆I don't think we can come up with a solution to the problem, however long we spend ( ) it.(センター 2009年 本試)

@discussing
Atalking
Bto discuss
Cto talk

以下、Chatgptの解答です。

「The correct answer is @ discussing.」

「"I don't think we can come up with a solution to the problem, however long we spend discussing it."」

というわけでこれはあっていますね。さすが英語圏出身、英語は得意のようです。

次は古典です。

◆「おもひたまへらむ」の文法的説明として正しいものを選べ(センター92年 本試)
@「おもひ」は名詞、「たまへ」は四段活用動詞、「らむ」は推量の助動詞である。
A「おもひ」は動詞、「たまへ」は四段活用補助動詞、「ら」は完了の助動詞、「む」は推量の助動詞である。
B「おもひ」は動詞、「たまへ」は四段活用補助動詞、「らむ」は推量の助動詞である。
C「おもひ」は名詞、「たまへ」は下二段活用動詞、ら」は完了の助動詞、「む」は推量の助動詞である。
D「おもひ」は動詞、「たまへ」は下二段活用補助動詞、「ら」は完了の助動詞、「む」は推量の助動詞である。
E「おもひ」は動詞、「たまへ」は下二段活用補助動詞、「らむ」は推量の助動詞。


以下Chatgptの解答です。

「正しい文法的説明は、B「おもひ」は動詞、「たまへ」は四段活用補助動詞、「らむ」は推量の助動詞である。です。 「おもひ」は動詞で、「たまへ」は補助動詞で、動詞の活用形を補助します。そして、「らむ」は推量の助動詞で、未来の可能性を表します。全体的に、「おもひたまへらむ」は、「思いを断ち切ることができないだろうか」という意味になります。」

これは間違っていますね。「らむ」は終止形接続ですが「たまへ」が四段活用ならば終止形では「たまふ」になるはずです。今回は「おもひ/たまへ/ら/む」と切って、Aが正しいです。「たまへ」は四段活用の已然形、「ら」は完了助動詞「り」の未然形ですね。「り」はサ変の未然、四段の已然形に接続します。


最後は日本史です。

◆奈良から平安時代の国家による地方支配の転換に関連して、10世紀以後の国家による地方支配に関して述べた文として誤っているものを選べ(センター2009年 本試改題)

@10世紀初めを最後に、全国的な班田収授は命じられなくなった
A耕地を名という単位に編成し、有力農民に耕作を請け負わせた
B国家の財源を確保するため、初期荘園の開発を奨励した
C国司に一定額の租税の納入を請け負わせ、地方支配を一任した

以下はChatgptの解答です。

誤っている分は、@10世紀初めを最後に、全国的な班田収授は命じられなくなった、です。

「班田収授は、中国の制度であり、日本でも古代から奈良時代にかけて導入された制度でした。しかし、平安時代中期以降、国家の財政が悪化し、班田収授による税収は十分でなくなっていたため、班田収授は徐々に廃止されていきました。しかし、班田収授が完全に廃止されたわけではなく、地域によっては班田収授が続いたという記録もあります。」

センターの解答的には誤りなのですが、難しいラインを言ってきますね…。班田収授は確かに10世紀以後にも少しの間行われたかもしれないという説自体はありますが、まだ確定的ではないため一応学習指導要領内では醍醐天皇が902年に行ったものが最後の班田とされています。
この問題で間違っているのはBですね。初期荘園は墾田永年私財法が出された743年からなので問題文の10世紀以後とは矛盾しています。
とはいえ、Chatgptからすると高校日本史に限定しろと言われているわけでもないので、指摘自体が的外れというほどでもないかなという印象です。

全体としては
化学×
英語〇
古典×
日本史△

といったところでしょうか。
もちろん、別の問題であれば完璧に答えることもあるでしょうし、今回は無料版のためより正確な課金版だとまた違った結果が出るかもしれません。便利なデバイスなのでこれから活用が広がっていくとは思いますが、自分で調べたり、確認することはやはり重要と思います。

今日はここまでです。

それでは!
posted by 松下勇太 at 14:52| Comment(0) | 雑談