2023年06月04日

奈良時代<藤原不比等〜藤原百川まで>


しばらく間が空いてしまいました。個別指導塾フォワードの松下です。
本日は久しぶりに日本史の問題を出していこうと思います。
今日扱うのは奈良時代ですね。奈良時代は藤原氏と藤原氏以外の政権が交互に権力の座を占めていましたが、その流れは受験でも頻出な反面、日本史受験生にとっては覚えにくい部分でもあります。今回の問題で記憶の確認をしてみてくださいね。

それでは問題です!

以下の(   )内に適切な言葉を入れて文を完成させなさい。

618年に中国大陸では隋に代わって唐が東アジアの広大な領域を支配下におさめ、律令を軸とする充実した国家体制を気づいて強力な勢力を誇り各地域に影響をおよぼしていた。
その影響は日本にも当然及んでおり、630年最初の遣唐使である( A )の派遣に始まり、( B )年の菅原道真の建議によって中止に至るまで十数回の唐への使節派遣が行われた。
こうした影響もあり、日本でも唐に倣って新しい政治体制を進める動きがより活発になっていった。710年、( C )天皇は( D )から平城京に遷都した。平城京は碁盤の目状に整然と区画された( E )をもつ都市であり、中央の南北を朱雀大路によって左京と右京に分けられていた。政治に目を向けるとそのころは皇族や有力豪族が勢力のバランスを保ちながら藤原不比等を中心に律令制度の確立が図られていた。しかし、藤原氏の勢力が大きくなるにつれて大伴氏や佐伯氏など旧来の有力豪族と藤原氏の間には軋轢が生じるようになり政争も徐々に本格化していくようになった。皇位継承を藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人にして生まれた子供である( F )天皇の即位を図り、さらに別の娘の( G )を( F )天皇の夫人として天皇家と藤原氏の密接な結びつきを築いた。不比等の死後、政界の首班となったのは高市皇子の子の( H )であったが、藤原不比等の子供の武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4兄弟は( F )天皇の次の皇位継承に不安を感じ、策謀によって( H )を自殺に追い込んだ。
しかし、藤原四子は天然痘で相次いで死去し藤原勢力が一時後退すると、皇族出身の( I )が政権を握ることとなった。彼は唐から帰還した法相宗の僧である( J )や留学生であった( K )と共に政治で活躍することとなった。しかし、740年、宇合の子で大宰府に赴任していた( L )が( J )・( K )の排除を求めて九州で兵を動員し乱を起こした。乱は大群によって鎮圧されたが政府の動揺はおさまらず、数年の間天皇は恭仁京・難波京・紫香楽宮など都を転々と移すことになった。
こうした政治不安の中で仏教をあつく信仰していた時の帝は( M )の思想によって平和と安定を図ろうとした。741年には( N )をだし、国ごとに国分寺・国分尼寺をもうけさせることにした。ついで、紫香楽宮で( O )が出され、国家事業として造仏が行われることになった。天皇はその後、娘の( P )天皇に譲位し、その御代である( Q )年に盛大な大仏開眼供養が行われることとなった。この儀式には時の天皇や上皇・上皇后や時の帝も参加したほか、文武百官やインド・中国から渡来した僧をはじめ1万人が参列する儀式となった。この天皇の時代では武智麻呂の子供の( R )が政界で勢力を伸ばしていた。高齢であった( I )は引退に追い込まれ、その子供であった( S )は大伴氏・佐伯氏らの力を借りて時の政権を倒すべく乱を起こそうとしたが、逆に先制されてしまい、厳しい取り調べの中で殺されることになってしまった。その後( R )は舎人親王の子であった( T )天皇を擁立し、太政大臣にあたる( U )にまで上り詰めたが、後ろ盾であった皇太后がなくなると貴族社会の中で孤立を深めていった。同じころ、太上天皇が自身の病気の看病を行った( V )を寵愛するようになり、( T )天皇と対立するようになると( R )は危機感を募らせ764年に挙兵をした。しかし、( R )は太上天皇の迅速な対応によって敗戦を期し、乱には直接かかわっていなかった天皇も皇位を廃されて淡路に流されることとなり、太上天皇が再び即位して( W )天皇となった。
その後、( V )は宇佐八幡神が自身を皇位につければ天下は太平になると告げたと言い、即位を行おうとしたが、神意を聞く使節であった( X )が( V )の信託と異なる報告をしたことで目論見は失敗となり、770年に( W )天皇が死去すると後ろ盾を失った( V )は左遷されることとなった。その後、藤原式家の出身である( Y )が中心となり、それまで続いた天武天皇系の皇統にかわって、天智天皇の子供の施基皇子の子の( Z )天皇を即位させ仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の立て直しが図られることとなった。





いかがでしょうか?奈良時代は先ほども書いた通り、藤原氏とそれ以外の勢力のサンドイッチ構造になっていて「藤原不比等」→「長屋王」→「藤原四子」→「橘諸兄」→「藤原仲麻呂」→「道鏡」→「藤原百川」と推移していきます。各勢力がどのような政策を行ったのか、特に公地公民制が崩壊する中でどのように対策していったのかも併せて覚えていきましょう。また、この時代は天皇も必須なので各政権と天皇は一緒に覚えておきましょう。それでは答えです!




以下の(   )内に入る言葉を答えよ

618年に中国大陸では隋に代わって唐が東アジアの広大な領域を支配下におさめ、律令を軸とする充実した国家体制を気づいて強力な勢力を誇り各地域に影響をおよぼしていた。
その影響は日本にも当然及んでおり、630年最初の遣唐使である(犬上御田鍬)の派遣に始まり、(894)年の菅原道真の建議によって中止に至るまで十数回の唐への使節派遣が行われた。
こうした影響もあり、日本でも唐に倣って新しい政治体制を進める動きがより活発になっていった。710年、(元明天皇)(藤原京)から平城京に遷都した。平城京は碁盤の目状に整然と区画された(条坊制)をもつ都市であり、中央の南北を朱雀大路によって左京と右京に分けられていた。政治に目を向けるとそのころは皇族や有力豪族が勢力のバランスを保ちながら藤原不比等を中心に律令制度の確立が図られていた。しかし、藤原氏の勢力が大きくなるにつれて大伴氏や佐伯氏など旧来の有力豪族と藤原氏の間には軋轢が生じるようになり政争も徐々に本格化していくようになった。皇位継承を藤原不比等は娘の宮子を文武天皇の夫人にして生まれた子供である(聖武天皇)の即位を図り、さらに別の娘の(光明子)(聖武天皇)の夫人として天皇家と藤原氏の密接な結びつきを築いた。不比等の死後、政界の首班となったのは高市皇子の子の(長屋王)であったが、藤原不比等の子供の武智麻呂、房前、宇合、麻呂の4兄弟は(聖武天皇)の次の皇位継承に不安を感じ、策謀によって(長屋王)を自殺に追い込んだ。
しかし、藤原四子は天然痘で相次いで死去し藤原勢力が一時後退すると、皇族出身の(橘諸兄)が政権を握ることとなった。彼は唐から帰還した法相宗の僧である(玄ム)や留学生であった(吉備真備)と共に政治で活躍することとなった。しかし、740年、宇合の子で大宰府に赴任していた(藤原広嗣)(玄ム)(吉備真備)の排除を求めて九州で兵を動員し乱を起こした。乱は大群によって鎮圧されたが政府の動揺はおさまらず、数年の間天皇は恭仁京・難波京・紫香楽宮など都を転々と移すことになった。
こうした政治不安の中で仏教をあつく信仰していた時の帝は(鎮護国家)の思想によって平和と安定を図ろうとした。741年には(国分寺建立の詔)をだし、国ごとに国分寺・国分尼寺をもうけさせることにした。ついで、紫香楽宮で(大仏造立の詔)が出され、国家事業として造仏が行われることになった。天皇はその後、娘の(孝謙天皇)に譲位し、その御代である(752)年に盛大な大仏開眼供養が行われることとなった。この儀式には時の天皇や上皇・上皇后や時の帝も参加したほか、文武百官やインド・中国から渡来した僧をはじめ1万人が参列する儀式となった。この天皇の時代では武智麻呂の子供の(藤原仲麻呂)が政界で勢力を伸ばしていた。高齢であった(橘諸兄)は引退に追い込まれその子供であった(橘奈良麻呂)は大伴氏・佐伯氏らの力を借りて時の政権を倒すべく乱を起こそうとしたが、逆に先制されてしまい、厳しい取り調べの中で殺されることになってしまった。その後(藤原仲麻呂)は舎人親王の子であった(淳仁天皇)を擁立し、太政大臣にあたる(太師)にまで上り詰めたが、後ろ盾であった皇太后がなくなると貴族社会の中で孤立を深めていった。同じころ、太上天皇が自身の病気の看病を行った(道鏡)を寵愛するようになり、(淳仁天皇)と対立するようになると(藤原仲麻呂)は危機感を募らせ764年に挙兵をした。しかし、(藤原仲麻呂)は太上天皇の迅速な対応によって敗戦を期し、乱には直接かかわっていなかった天皇も皇位を廃されて淡路に流されることとなり、太上天皇が再び即位して(称徳天皇)となった。
そのご、(道鏡)は宇佐八幡神が自身を皇位につければ天下は太平になると告げたと言い、即位を行おうとしたが、神意を聞く使節であった(和気清麻呂)(道鏡)の信託と異なる報告をしたことで目論見は失敗となり、770年に(称徳天皇)が死去すると後ろ盾を失った(道鏡)は左遷されることとなった。その後、藤原式家の出身である(藤原百川)が中心となり、それまで続いた天武天皇系の皇統にかわって、天智天皇の子供の施基皇子の子の(光仁天皇)を即位させ仏教政治で混乱した律令政治と国家財政の立て直しが図られることとなった。


それではまた!
posted by 松下勇太 at 17:04| Comment(0) | 日本史
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